幼少期の入院経験から看護師を目指す人は多いようですが、大和市立病院の看護部長・山田谷節子さんもその一人。担当看護師の優しい言動が「辞めることなんて考えたことがない」くらい、強い思いの看護師を誕生させたようです。
将来を決めた看護師との出会い
──山田谷さんはなぜ看護師になろうと思われたのですか。
小学校低学年の頃に手術を受けたことがあって、「痛い」と言えずに我慢していた私に、「つらいね、痛いね、我慢しなくていいのよ」と看護婦さんが声をかけてくれたんです。白いナースキャップと白衣の、その優しい姿がとても印象的で、「将来は看護婦さんになる!」と心に決めました。
家庭の事情もあり、自分の力で一日も早く正看護師資格をとりたかったので、高校進学の際は親元を離れ、名古屋市の眼科医院に住み込み、働きながら看護学校で勉強する道を選びました。
――どのような学生生活だったのですか。
3年間の学費を出してもらう代わりに、毎朝6時半に起床し、診療開始前に診察室などを掃除してから学校へ。勉強が終わると医院に戻り、午後の診察に合わせて掃除や綿球づくりなどの手伝いをしました。
診察時間は19時まで。寮の門限が21時なので部活動は経験できなかったけれど、高校卒業と同時に准看護師資格を取得できました。
その後は正看護師への最短コースをと、2年制の北里相模原高等看護学院へ進学。どうしても大学病院で働ける看護師になりたかったんですね。
本来なら学費を出してもらった医院で准看護師として働きながら3年制の医師会の学校に進学するのが習いなのですが、薄情にもお礼奉公はしませんでした。お世話になった院長には合格してからの事後報告だったので、「そういうことは受ける前に相談するもんだよ」とお叱りを受けましたが、許していただけました(笑)。
10年の神経内科病棟勤務の後、教育の道へ
──そこから31年間北里で過ごされるわけですが、印象に残る思い出や学びはありましたか。
2年目に同期11人のなかでたった一人、異動がありました。上司に理由を尋ねると、循環器外科と呼吸器内科の混合病棟を新設するため、どちらにも染まっていない私に潤滑油になれ、ということでした。私個人というよりも、2年目の経験の未熟さを買われたのでしょう。
アルバイト時代から所属していた病棟だったので、出されるショックは相当でしたが、そこで10年頑張り、その後、新設の準備委員として北里大学東病院へ。
消化器科を希望したのですが、今度は神経内科の配属となってしまいました。これはいけないと、看護部長に直談判にいったところ、「それなら残念だけど、辞めてもらうしかありませんね」と一言。断ったら明日から仕事がない!? すぐに「いつから行けばいいですか」とコロッと態度を変えました(笑)。
看護師を絶対に辞めたくない気持ちを看護部長はわかっていたのでしょうね。このとき、自分はあくまで組織の一員であって、自分にできる役割があるからこそ辞令が下るのだと強く認識しました。
──病棟勤務の後、看護管理のほうへと進まれていますね?
10年間勤務した神経内科病棟では、今の医学では進行の止められない病気の患者さんを目の当たりにして、考えさせられることがたくさんありました。人としての生き方を学ばせてもらい、ぼやぼやしてはいられない!と気持ちを新たにしたのを覚えています。病棟在籍中に日本看護協会の看護管理研修に1年間行くことになった一因も、そこにあったのかもしれません。
研修から戻ると、その成果を還元するため、教育担当として継続教育の企画運営評価に2年間携わりました。これまでは経験と実践が中心で、ケアの必要性を理論的に説明することが苦手だったのですが、この間にあらゆる分野の本を読み込み、勉強の仕方や理論を学びました。
裏づけの理論をもつと説得力が生まれるだけでなく、自分が悩んだときに救われる材料にもなります。このとき学んだ考え方は現在も活かされていますね。
――現場への未練はなかったのですか?
教育担当になった当初は患者さんを直接ケアできなくなるのがつらく、PCを前に看護師の教育計画を練るのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。
半年くらいたち、ようやく教育への興味も出始めた頃でしょうか、シャンプーするとごっそり頭髪が抜け始めたのです。皮膚科での診断は出産性脱毛。気づかないうちにストレスに身体が反応していたんですね。
幸いなことに、ナースキャップが薄くなった部分をうまく隠してくれました。そして治療で髪が生え始めた頃には、キャップは不潔だからと廃止に(笑)。私の人生は「どうしよう!」と思うことが多いけど、困っていると何かしらに助けられている。そう思えたんですよね(笑)
異動先で学んだ人間関係の構築
──さまざまな部署や施設へ異動された経験は現在にどのような影響を与えていますか。
異動にはマイナスのイメージがあるかもしれませんが、そこでしかできない経験や体験もたくさんあります。私の場合、循環器・呼吸器科では病気と向き合い、無事退院していく喜びを、神経内科では人生を、管理職になってからは人を育てることの大切さを学びました。
なかでも現職に役立ったのは前例のない異動先での人間関係の構築でしょうか。神奈川県の身体障害者療護施設の診療部門が北里に委託されるに伴い、看護科長として27人の看護師を率いて異動したことがありました。当初は介護職の看護師に対する不信感が根強く、意思の疎通を図りながら、双方の専門性を活かすことに努めました。
──具体的にどのようにされたのですか。
例えば、食事介助はどちらの仕事かではなく、利用者の体調をみて嚥下機能が落ちているなら看護職が、問題ない時は介護職がというように、互いの専門性を認め合って担当する者が変わればよいとシンプルに考えることにしたのです。
その結果、看護と介護の信頼関係は深まり、利用者やその家族へのサービス向上にもつながりました。この経験で、何をどう改善すれば働きやすい環境にできるのか、また図らずも公立の医療機関でのさまざまな申請方法なども学ぶことができたと思います。
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