看護師は夜勤のラウンドや訪問看護など、患者さんの健康状態を確認する機会が多くありますが、患者状態を適切に判断するためには、プライマリ・ケアの技術が大いに役立ちます。
本連載では、拠点病院などによる後方支援を期待できない土地で、医療・検査機器などもない患者宅で医療を提供する「へき地医療」を通じ、“究極のプライマリ・ケア”と地域医療の実際を解説します。
勤務地から離れる
あっという間に島での2年が終わり、島を離れるときが近づきました。
正直に告白しますと、島を離れることが決まってからしばらくは、「これからはコンビニに好きなだけ好きな時間行ける」とか「東京だってどこだって地面が続いていればいつでも行ける」といった期待に胸がわくわくしていました。
なんだかんだとドタバタしていると、あっという間に3月になりました。
今となっては何をそんなに飲んだり泣いたりしていたのかよく覚えていませんが、ともかく最後の数週間は苦しいほど飲んでいました。
波照間島との別れ
離島の3月は別れの季節です。
「島を離れる」というのは、東京から大阪への異動などとはちょっと趣が異なります。別に今生の別れではないのですが、やはりいろんな意味で海の向こうは「遠い」のです。
まず波照間島には高校がありません。波照間小中学校の卒業式がある日には、これから島を離れて暮らす中学3年生の自宅で、言うなれば「壮行会」が開かれます。
関係のある人が皆、卒業生の家に労いにやってきては飲み、決意表明を聞いたり、校歌ダンス*を踊ったり。
*波照間島では、島の人はほぼ波照間小中学校の卒業生であり、皆が校歌を歌えます。そして事あるごとに、その校歌とそれに付属する踊りを踊るのです。運動会、結婚式、その他お祝いごとなど、学校が関係なくても踊ってしまうことも。
15歳で島を離れていく中学3年生は、私にもかかわりがある……いや島のほとんどすべての人が関係し、大切に育てた島の宝といえるのかもしれません。
皆、私が初めて見たときよりもずっと逞しくなり、保護者たちはたまらない不安と同時に誇らしいような顔をしています。その後、学校の教員を皮切りに公務員が島を離れはじめます。
島を離れるために港に向かう
学校の先生と一緒に島を離れる
島を離れるのは、島医者が最後かもしれません。異動の連絡は、ほかの公務員のように直前(ある人は数日前に波照間に行くことを聞いたと言っていました……)ではありませんでしたし、自ら島を出ると決めたのですから、心の準備はできていたつもりです。
しかし、人の送別会に出たり、いつも通りの日常を過ごしている中で、だんだんとてつもない寂しさを感じるようになっていきました。
医療者としてのプロ意識
波照間島は、いいことばかりの幸せな島とは言いません。
船は欠航ばかりで不便だし、医療者としても簡単なことばかりではないし、どんな島でも島医者は誰しも「もう限界!」って少なからず思うことがあるでしょう。
患者さんは家族ではありませんし、2年前に知ったばかりの人たちです。けれども、いいところも悪いところも知りつくして、付き合ってきた人たちと離れる寂しさや、医師としてその人たちの健康問題を途中で手放すことの無念さも感じていました。
医療者にのしかかる責任は、通常は裁判のリスクなどと同じテーブルで語られる事柄で、極力避けていたいものです。
しかし、私はこのとき初めて、医師としてのやりがいをその責任に見出していたことに気づきました。「あぁ私はこれからこの人たちのことを気にすることはできても、責任はもてなくなるんだな」と強く感じたのです。
皆さんは水道管が壊れたときに直せますか?
ガスが止まったら?
ヤギの育て方も知らないし、ゴミの捨て方も知らない。農作物を作れるわけでもないし、魚を釣ることもできない。
波照間島で暮らして、自分はやっぱり医療の専門家で、それを提供するしかないと感じました。
逆に代替の医師がいないという状況で、病気に苦しむ人がいれば、医師としてできることをしなければならない、そのプロ意識を学ぶことができました。
医師になるにはどうすればいいでしょうか?
大学受験して医学部に進学し、国家試験にパスすれば医師免許は与えられるでしょう。しかし私は、本当の意味で医師になれたのは、このときであったと思うのです。
「島医者は島が育てる」
沖縄に伝わるこの言葉の意味を噛みしめた瞬間でした。
別れを迎えて
いずれにしても、私自身、こんなに深く心理的にコミットしているなら、もう離れるタイミングだったのかもしれません。
島医者には、長く同じところに留まるメリットもあればデメリットもあると感じています。
波照間小中学校の校歌は着任直後の入学式からずっと聴き続けましたが、最後に島を離れるとき、桟橋に島の人が集まって校歌を歌ってくれました。その歌詞にはこうあります。
八重の潮路に風すさみ 時代の波は高くとも 学びの道をいそしみて 理想の郷をきずくべく 誠心の帆を上げて 強く正しく進まなん
私の暮らしていた前集落の送別会
別れのとき、涙とともに感傷的な気分をのせて船が出ましたが、やっぱり八重の潮路の波は高く、心窩部の不快感を感じているうちに石垣島に着きました。
そしてあっという間、翌日から鳥取での仕事がはじまったのです。