看護師は夜勤のラウンドや訪問看護など、患者さんの健康状態を確認する機会が多くありますが、患者状態を適切に判断するためには、プライマリ・ケアの技術が大いに役立ちます。
本連載では、拠点病院などによる後方支援を期待できない土地で、医療・検査機器などもない患者宅で医療を提供する「へき地医療」を通じ、“究極のプライマリ・ケア”と地域医療の実際を解説します。
プロローグ
まだ3月だというのにひどく暑い日だった。
医師になってからずっと、この日に向けてトレーニングをしてきたけれど、それでもいざ離島に赴任するとなると、期待とともにやり残したものがあるような気がしていた。
波照間島に向かう船は徐々に空が曇っていくのにしたがって大きく揺れてきた…。
私は医学部卒業後、沖縄本島で研修を受け、2013年春から2015年3月まで沖縄県の中でも最南端に位置する波照間島に島医者として赴任していました。今回、そのドタバタ離島医療奮闘記を連載させていただく機会をいただきました。末筆ながらお付き合いいただけると幸いです。
そもそもなぜ離島に赴任することになったのか?
私の医学生時代には皆さんもご存知の漫画やテレビドラマで離島医療にスポットライトが当たっていました。
しかし実は私自身、未だにそういったテレビも漫画もみたことがありません。
もともとそんな憧れもなく(失礼!)、学生時代から総合診療や地域医療に特別興味もなかった私がなぜ離島医師となったのか。
そもそも私は医師を志したときから、病気を治すことというよりも、より良い社会を作っていくことに興味がありました。
特別何科の医師になりたいとか、どこか特定の臓器に興味があるわけではありませんでした。
“健康という切り口から社会に貢献する”
それが私の考えでした。
自分のキャリアを考えた結果・・・
通常、医師は卒業が近くなると実習などを通して先輩に勧誘されたり、興味を持ったりして特定の診療科を選ぶことになります。
私は多くの医学生同様、外科も内科も小児科も産婦人科も興味を持ちましたし、どれかを選択してどれかを失うことにも残念だと感じていました。
“そもそも元来目指していたのはこういうことだっけ?”という違和感も年々覚えるようになっていました。
そう、もともとは“社会の健康レベルを上げたい”といった公衆衛生的な視点を強く持っていたのでした。
それでも「公衆衛生や社会の健康問題に興味がある」と話すとよく理解されないか、「そういうのは年取ってからやるもんだ」というネガティブなアドバイスをいただいて大変落ち込んだものです。
ともかくそんな違和感振り切って、沖縄県立中部病院で研修生活を始めました。
思い切ってみる
全国でも有数の過酷な研修で知られる病院への就職を決めたのは、いっそ臨床医を5年で辞めて医療政策をやろう、5年で辞めるなら一生懸命5年間働こう、と考えたからでした。
また、そこでは内科でも外科でもなくプライマリ・ケア(通称:島医者)コースを選びました。社会の健康問題を考えるには離島の一人診療所は最適な場所に思えたからです。
結果的に今もこうして家庭医を続けているわけですが、ともかくそこで、寝る間もなく(寝る間を惜しんでいたわけではないです)働いて離島で必要な知識と技術を学び、医師となって4年目の春、晴れて波照間島へと赴任することになったのです。
島に渡ってみたものの…
実は冒頭のようにドラマの主人公よろしく船に乗っていたのははじめの15分だけでした。波照間島は、沖縄からはるか400km以上離れている石垣島からさらに約56km南西に位置しており、民間人が上陸できる日本最南端の離島です。
石垣島の周辺には竹富島や小浜島、西表島など様々な離島があり観光地として人気がありますが、波照間島はそれらの離島から少し離れており、外洋に囲まれています。
そのため一度天候が悪化すると1時間のはずだった高速船が2時間ほどかかることもあり、軽めのジェットコースターにずっと乗っている感覚です。
ジェットコースターなら大丈夫という方は是非1時間以上乗られるとわかるかと思いますが、船内は吐物臭がたちこることもあり、嘔吐の連鎖も…
そういう時は船の最後尾にあるトイレの前にへばりつくのが私の定位置でした。
そして赴任当日も例に漏れず、激しい船酔いに襲われました。事前に想定していた慢性疾患のケアや救急疾患の対応を越え、赴任早々、いや赴任前からのまさかの事態に自分の準備不足を恨みました。
“離島に赴任する不安とかどうでもいいから早く着いてくれ―”
カウントダウンしながら波照間島の桟橋つくと、前任医師が「急患を石垣島に搬送するからこの船でお前が送ってくれ、俺は次の船で島を出るから次の船にお前は乗ってこい」と言われまさかの上陸10歩程度で石垣島に逆戻り。1往復半の船旅をして波照間島に赴任することになったのです。
前任医師との交代はひどくあっさりしたものでした。
桟橋で急患用の携帯を受け渡し、
「頑張れよ」。
遠ざかる船の物悲しさは忘れられません。
これからはじまる離島での診療や生活が思いやられるスタートとなったのです。