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大学病院から市民病院に転職しました。
循環器・腎臓内科病棟に変わったせいかもしれませんが、お年寄が多い…それも、病気というか老化…という感じです。
内科として循・腎だけでなく診断名が、肺炎(誤嚥性)、尿路感染(食欲不振・脱水ベース)、食欲不振に意識レベル低下(脱水、老化)、脱水…に至っては、もう自然な老化の階段を昇っているだけでは?と
介護にかかる手間はかなりきつく、食べない食事を1時間かけてすすめ、STがはいり、補助食品をいれ…高齢者を看取るのに、ものすごい労力と医療が費やされるんだなあ…
高齢化日本の高齢者、あとどれだけの数の高齢者をこうやって手をかけて看とっていくのか?そんなマンパワーがあるのか?気が遠くなるようです…
もちろん、延命の説明は医師からあるのですが、弱る、点滴、復活、施設に戻る、弱る、点滴、復活、施設に戻る…を何往復もする食事のとれない認知症のご老人をみると、これは延命ではないのか?ともっと自然な看とりがあるのではないか?と悶々とします…
私は延命に意味を感じないので(延命したい個人の意志まで阻止したいわけではありませんが)町医者が重要、普段から体調をみてもらい、老化による「その時」がきても救急搬送せず自然に亡くなるのが 理想なのかな、と思います。
老人医療、やっていて疲れてきました…もちろん、良い看とり、納得のいく医療がうけられるよう家族や本人を支援する、という難しく大切なやりがいのある分野ではあると思うのですが…
看取り、延命、介護…
■高齢者看護、葛藤する人は多数
レベルも下がっていてご飯も食べられない患者さんへの輸液だけの治療などを見ていて、結局は延命治療なのでは?と疑問に思ってしまいます。
80代後半に入り手術希望の方など見かけますといつまで生きるつもりなんだろうと思います。 多額の医療費(税)を使い見ていて複雑な気持ちになります。
ヘンダーソンの定義にあるカッコに入れられた言葉「平和な死」への援助。多くの看護師はこのことに悩んでいるのかも知れませんね。そもそも「死」に平和があるのか?
高齢者が人生の下り坂をゆっくり歩めるよう上手に支えることと、今の医療が提供しようとすることは真逆ではないかと思うこと少なくありません。
■高齢者医療の現実
祖父がその状態です。心筋梗塞を発症して26年。何度も発作に不整脈、バイパス手術、ペースメーカー埋め込み。手は尽くしまくり現在84歳!気づいたら透析をしていました。
担当医が、祖母に元の状態に戻して帰します!!なんて言ってくれて…祖母の気持ちは揺れまくりです。
実父が脳出血で倒れ、胃瘻増設の勧めを医師からされたときのこと。「手術日は〇日です」と増設の希望の有無ではなく提示されました。
医療関係者が家族にいなかったら、その通り増設されていたと思います。胃瘻増設拒否をする選択は今もやはり、勇気がいる選択になっていることを実感しました。現在、経口摂取が可能となっています。
病院では栄養がとれなくなった患者さんの家族にどうするかたずねます。胃瘻を作らないと施設ではみてもらえないと家族に話をすると家族は胃瘻を承諾する仕組みだそうです。
そんなこと言われたら家族は同意するしかないよなぁと思いました。延命を望むというより家族や病院の都合が優先。情報が足りないのかもしれません。
■延命は、誰が望むのか…?
80歳を超えているような老人にバイッパップやサーボつけてその後、気切したり、CVいれたり、最後の最後にまだ透析したり…もう医者の気の済むまでなのか、と思うような濃い医療をされています。
高齢者の患者さんでストーマを造設し、こんな歳でこんなものがついて死にたい、なんて言われる方もいらっしゃいました。
大切な人が1日でも長く生きていて欲しいと思う家族の気持ちはわかります。しかし、辛い治療や、ましてや死にたいだなんて思う手術を受けさせてまで長生きさせるのは違うのでは?と思います。
患者さんの為に看護師になったのに、家族の為に働いているみたいな気持ちになります。
理解力のある高齢男性が食欲低下で入院。昔からお酒を飲みながら食べ物をつまむ程度の栄養摂取。本人はこのままがいいのに、妻に無理やり入院させられ、しまいには本人にはしっかり説明せずポート造設。
おかけで、、点滴ルートをちぎったり、一人で出て行こうとしたり…「俺は早く帰りたいんや、こんなの拉致や」、ホント患者が可哀想で仕方ありません。
■「死」を考えることが重要では
看護師がどうのというより、その人自信が…病気になる本人…が、もしものことをもっと考えていかなくてはと思います。自分に責任を持つというか。情報化社内なのだから、いろいろ考えるチャンスはありますしね。
元気なうちに自身の生き方を決めておく選択肢を看護者が与えたらと思います。
日本人は死をネガティヴなものとして捉えてますよね。とにかく死について考える機会が少ない。だから意味のない医療といったら語弊があるかもしれませんが、現実行われているのではないでしょうか?
本人にとって望む治療なのか、人間らしく尊厳をもった生き方がされているのか、立ち位置を医療者サイドではなく老人の側に立った論点でないとおかしな方向に進む気がします。
人は病院で死ぬのが当たり前になってから、老衰で死ぬことを忘れた方々が多いのではないでしょうか。これからは人が死ぬということ。を学術的に教育することも大事ではないでしょうか。
人の命を軽視する若者が増えているのも気になります。
■医療を提供する側も変わる必要があるのでは
医師はやはり延命にこだわる方が多いと見受けられます。在宅医との違いは歴然です。終末期をその方らしく生きられたら、と願います。
医師が変わる必要もあると思う。説明と同意…伝え方が保身に見えてくる。治療しない報告の思い(本人家族)を代弁し、医師に伝えた時、明らかにムッとされたことあり。
■やりがいのある高齢者看護、看取り
食事が嫌だとお膳をひっくり返され、お風呂が嫌だとつねられ、オムツ確認も蹴飛ばされ…
でも、それでも、ご飯を全量食べられて、すごいねと声かければニコリとしてくれて、お湯に浸かりながら手足の垢をこすられてる時の微笑み、そして面会にきてそんな姿の身内を見て、安心してる御家族。どの現場も、虚しいと思う反面、やり甲斐のある職場だと思いますよ
一人一人は、誰かの大切な家族だったり、何もできないけど、その方の存在が、生き甲斐だったりするのでは?少しでも意識があれば、助けてって言うのでは?
諦めがつくまでに、誰かの説得や慰め、時間が必要なんです。病院と施設や自宅の往復の繰り返しは、その為に必要な事なのだと気がついたのは私も最近ですが、その橋渡しに必要なのが、私の仕事だと思っています。
食べたいものを食べられるだけ食べ、微々たる水分補給程度の点滴や、呼吸が楽になるようにわずかな酸素投与、嘱託医と施設ナース、介護職員、家族で協力して最後まで看取る。そんな看取りをやってました。安らかな最後、浮腫や管だらけなんてこともなく、良い看取りだったな…って思えることたくさんありました。そんな看取りをやっている所もありますよ。
ほとんどの高齢者や癌末期の方は『好きな生活をして好きなものを食べて、食べられなくなったら苦痛を取り除く程度の医療処置をして住み慣れた家で家族に見守られて死にたい』という希望を伝えられるので、できる限りその意向が叶えられるようお手伝いをしています。
関連トピック:「
高齢者の医療… 疲れてきました
」
イラスト・なしま